暮らすがえジャーナル

暮らすがえジャーナル

“生きている遺跡”で見つけた「暮らすがえ」の始まり

「暮らすがえ」とは、ライフステージや家族の成長、季節や気持ちの変化に合わせて、暮らしに自ら手を加え、ありたい「私らしい暮らし」を実現していくことをいいます。

じゃあ、「暮らすがえ」の始まりっていつなんだろう?

「暮らすがえ」は、私たちがつくりだした言葉。
「でも、もしかして『暮らすがえ』の行為自体はずっと前からあったんじゃない?」

そんな疑問が、編集部で持ち上がりました。

「人類が初めて暮らしに手を加え始めたのっていつ??」
「縄文時代とか?定住が始まったって学校でも習うよね。」
「収納の概念も、もしかしてこの時代には生まれていたのかな?」

そんな話し合いの末、みつけたのが山梨県北杜市にある、梅之木遺跡公園。
なんと、縄文時代の竪穴住居を当時の素材と技術で復元しており、実際に寝泊りしながらその生活が体験できるらしい。

ここにいけば縄文時代の人々の暮らしがわかるかもしれない!

私たちは現地に行き、梅之木遺跡の発掘調査・復元作業に従事され、今も案内役を務める佐野隆さんにお話をお伺いしました。
実際に生活体験をしながら復元していった遺跡の中に「暮らすがえ」の始まりは、果たして見つかるのでしょうか。

小高い山の上にある梅之木遺跡公園。奥には八ヶ岳がみえる。

――すごく良い景色ですね!

ここからは、八ヶ岳と南アルプス、富士山を左右に見渡すことができます。
この、梅之木遺跡公園では、発掘された竪穴住居の遺跡を元にして、実際に竪穴住居をいくつか再現しています。

今は5つの竪穴住居が再現されていて、一番大きな住居では、宿泊体験を行うこともできるんです。ご案内しますね。

――これが、竪穴住居ですか…!中は天窓からの光が差し込んでいて結構明るいですね。

天窓を閉じると一気に暗くなるんです。縄文時代の竪穴住居に天窓があったかどうか遺跡の発掘調査からは判別できないのですが、家の中で土器を作っていたと考えられているので、作業のためにも天窓はあったのではと推測されています。

どうぞ、おかけください。

――焚火を囲んでの取材は初めてです。では、さっそくなのですが、人類が定住を始めたのはいつ頃なんですか?

人類が一つの箇所に定住しだしたのは、今から約11,000年前ほどです。

マンモスなどの大型動物が氷河期の終わりに絶滅しました。その後、温暖化の影響で木の実などの植物が育つようになったんです。木の実の周りにはそれを食べて暮らすような鹿などの動物もあらわれる。そうすると、動物を追いかけるように移動して暮らしていた狩猟民たちも、森の中で定住を始めます。同じ場所に長く住むための家としてできたのが竪穴住居です。

――なるほど、長く同じ場所に住む必要がでてきたから、定住が始まったんですね。この竪穴住居も結構頑丈そうです。

でも、柱が10年くらいで根腐れをしてしまうので、長くてもそれくらいで建て替えていたのではと思います。その家に家族ごとに住んでいたのか、それとも年代や性別で分かれて暮らしていたのか、それは分かりません。

――まだまだ分からないことが多いんですね。

当時の文献がありませんからね。実際にどんな暮らしをしていたかは、遺跡から発掘された土器や石器、住居跡や、遺構から回収された土壌、炭化材から分析して、仮説を立てていくんです。

他にも、例えばアイヌ民族や、太平洋沿いの竪穴住居で暮らす民族の文化から「縄文時代の暮らしはこういったものだったのではないか」と推測することもあります。

遺跡から分かっていることでいえば、縄文時代の中でも、家の様子は少しずつ変わっています。例えば、ここは5本の柱跡が見つかった住居跡に復元したので、かなり大きい建物ですが、小さいものでは3本柱の小さな住居跡も見つかっています。長く腰を据えて住むには狭いので、もしかしたら、簡易テントのような、短期間しか滞在しないことが前提の住居だったのかもしれません。季節によって住む場所を変えていたから、こういった簡易的な住居にしていたということも考えられます。

復元された3本柱の住居。中は大人3人が寝られるテントほどの大きさだ。

――縄文時代の中でもいろんな住み方があったのかもしれないんですね。ちなみに、この竪穴住居たちはどうやって復元したんですか。

竪穴住居跡から出土した土器から、まず何年ごろの、どれくらいの大きさの家だったのかを調べました。あとは、発掘された磨製石器の石の成分を調べたら、長野県で採れる石だということが分かったので、実際にそこまで行って石をとり、その石で磨製石器を作って、その石器で木を切って柱を立てました。

梅之木遺跡公園で最初に復元された竪穴住居「一番最初につくったのでさっきの住居よりもちょっといびつなんですよね、竪穴住居も作れば作るほどきれいになっていきます。」と佐野さん

――つくり方まで徹底して再現されているんですか!

2つめの住居からはボランティアの方にも入っていただいているのでそこまで厳密なつくり方はしていないですけどね。ただ、できるだけ当時の住まいに近づけようと柱の数や使用する道具は発掘されたものを忠実に再現しています。竪穴住居というと、茅葺屋根を想像される方が多いのですが、最近の研究ではこの施設のように土をかぶせた屋根が一般的だったのではと言われています。

――確かに、昔歴史の教科書で見た絵とは違うなと感じました。土屋根だからなんですね!

他にも、できる限り、当時の遺跡や暮らしを再現するため、実際に私たちが寝泊りをしてその住み心地を確かめたりもしました。

――え、実際に住んでみたんですか?

できるだけ忠実に当時の姿を再現したいなと。

――すごい…住んでみて、分かったことはありますか?

まずは、暑さと寒さですね。

今はちょうどいい気候(取材当時は秋)だから気になりませんが、最初の住居では夏になるとジメジメとして柱にカビやキノコが生えてしまう。逆に冬は寒いから、窓を閉めるのですが、そうすると煙が部屋の中に充満して住んでいられない。「屋根の土をおろしてみよう」「窓の数を増やしてみよう」と色々試行錯誤していました。

最初に作った竪穴住居の中の柱にはキノコのようなものが。「人が定期的に入らないとすぐにこうなってしまいます。」と佐野さん。家は住まないと古びていくのは今も同じだ。

――きっと、当時の縄文人もそうやって快適に暮らすための試行錯誤をしていたんでしょうね。
あとは、例えば収納はどうですか?というか、そもそも当時、収納という概念はあったのでしょうか?

実は、遺跡としては竪穴住居の中に収納に使ったと思われる穴が発見されているんです。
土器や、木の実を一時的にしまう場所として使われていたのではと考えられています。

――すごい、やっぱり定住していくと収納の概念は生まれるんですね!

木の実は一年中実っているわけじゃないですからね。大量に収穫して貯蔵する必要があるんです。
あとは、私たちが住みながら工夫していった収納にはなりますが、この家でいえば梁に天窓用の梯子をひっかけたりしています。

竪穴住居住居の天井。左上のハシゴ状に見えるのが、天窓を閉めるためのハシゴだ。

――わ、ほんとだ気づかなかった!確かにこの家だと柱も梁もむき出しだから色々ひっかけて収納できますね!

あとは、屋根と壁のあいだの段差を棚代わりにして薪を置いたり、土器の道具を置いたりしています。

もちろん、縄文時代の人々が、このように使っていたのかどうかは分かりません。自分たちが実際に住んでみながら「こうしたら便利じゃないか」「きっとこうだったんじゃないか」と工夫した結果、こういう置き方や暮らし方になっているんです。

竪穴住居の奥、段差を利用して薪や籠などが並べられている

実際に住んでみると「この方が便利だよな」「こうした方が快適だよな」と、色々な工夫が生まれてきます。きっと、当時の人々も竪穴住居を作って終わり、ではなく、そこにあるものを使って、自分たちが心地よく暮らすためにいろいろ工夫していたんじゃないかと思います。

――なるほど、確かに、安全に、快適に生きようと思ったら当時の人々も色々工夫していたに違いないですよね。

編集後記

「ここの遺跡は生きている」それが、インタビューで抱いた最初の感想です。

調査内容から忠実に作り、実際に暮らしていくことで、出来上がった竪穴住居。当時の人々もこここんな暮らしをしていたのかもしれないと、思いをはせることができました。

当たり前だけれど、電気もガスも水道も、つっぱり棒も既製の棚も無かった時代。
縄文人もきっと、竪穴住居の中で心地よく暮らすために、そこにあるもので工夫をしながら、暮らしに手を加え続けていたに違いない。

まさしく、日本最初の「暮らすがえ」だ。

では、現代に生きる私たちが、縄文時代の暮らしから何かヒントを得ることはできるのだろうか。私たちの日々の暮らしと縄文時代の暮らしの中に、重なりはあるのだろうか。

次回は、そんなオハナシをしたいと思います。